『ボクの音楽修行』で小沢征爾を知って

 小沢征爾の『ボクの音楽武者修行』を読んだのは、いつ頃だったろうか?この本は1962年に出版されているが、読んだのは1960年代末の頃であったように思う。その前に小田実の『何でも見てやろう』を読んで強く影響を受けて、海外放浪の旅に憧れていた。小沢のこの書も、著者のことを全く知らず、音楽家を目指す青年がスクーターで海外旅行をするという内容に引かれたのだった。ラグビーで手の骨を折った話や桐朋音楽短大への入学前後の話は強く印象に残った。それ以後、小沢征爾と言う名前に敏感となり、音楽にも注目するようになった。

高津原橋


 

 

 

 



長堀通りの松屋町交差点のすぐ東に陸橋があります。交差点によくある、車を優先して歩行者に階段を上下する負担を押しつける陸橋ではありません。車も人も自転車も渡れる陸橋です。

 昭和30年ごろ、私の家から心斎橋に出るには、今の長堀通りを走る市電を利用しました。今の「松屋町交差点」は当時「末吉橋交差点」と言われていました。そのすぐ東に陸橋があったのです。川でもない道路の上に橋が架かっていることに子ども心に不思議な思いをしていました。

 長い間、疑問はそのままになっていたのですが、大人になってからその近辺で育った人と知り合い、その橋は「高津原橋」という名前であること、さらに別のひとからは、地元の子どもは「空中橋」と呼んでいたと教えて貰いました。

 この陸橋は、1910年、大阪市電が末吉橋から玉造まで東に延伸されるときに設置されました。末吉橋から東へは上町台地への厳しい登りになるので、傾斜を緩くするため、松屋町筋から東方向への道路改修が行われ、松屋町筋の一本東の筋である骨屋町筋あたりが最も大きく掘りさげられました。その結果、骨屋町筋は長堀通りを境に南北に途切れることとなるので、それを避けるために高津原橋がかけられたとのことです。

 2024年1月の大阪女子マラソンの22キロ附近がこの高津原橋の真下です。日本記録を更新した前田選手が上町台地の下りを利用してスパートをかけた様子もみられるので、写真を添付しました。

南海汐見橋線

 気温も低く、風も強く散歩もできない11月のある日、今まで気になりながらも乗ったことのない電車に乗りに行きました。南海汐見橋線です。桜川のそばの汐見橋から芦原町、木津川、津守、西天下茶屋、岸ノ里玉出までの単線の6駅で、全線で240円でした。使われている車両は2両編成のワンマンカーで、この列車が30分おきに往復します。

 午後2時頃に私が乗車したときには、汐見橋では10人余りの乗客でした。汐見橋はもともと高野線の終点で、将来には大阪駅方面への延伸も考えられていたとのことです。岸ノ里玉出では高野線南海本線と平行してホームはありますが、今ではこのどちらにも繋がっていません。木津川は一日の乗降客が200名ほどとも言われます。西天下茶屋からは乗客が増えました。木津川と西天下茶屋はレトロな駅舎がそのまま残っていて、人気の写真ポイントとなっています。津守は公立高校の正門前です。その学校の生徒でしょうか、数人の生徒が岸ノ里玉出行きに乗り込んできましたが、終点の岸ノ里玉出で降りず、そのまま残っていました。汐見橋か芦原町まで戻るだろうかと思いながら、寒さや暑さが厳しい折にはそのような利用方法も可能なのだなと思いました。大都会ではちょっと考えられない利用方法にも思えましたが、世知辛い世の中で、ゆとりが感じられる光景でした。大都会の中に残っているローカル線の面白さがたっぷりでした。

小津映画

 今年は小津安二郎の生誕120年ということで、先週のBS松竹東急では小津特集として、5日間に渡り、晩春、宗方姉妹、麦秋、東京暮色、小早川家の秋が放送され、BS1では東京物語、お早うが放送されました。晩春では原節子の若い頃の姿を見て、どこか日本人離れした容姿に目を引かれました。小津映画のカメラアングルは低い視点からとることに特徴があるのはよく知られていますが、その低い視点は長い箱の端から遠いむこうを見るようなアングルが多いことに改めて気がつきました。身近にある少し遠景の風景が心象を暗示するように使われているのも有名ですが、やはり効果的だと再認識しました。戦前の作品のテーマは、東京や鎌倉、時には京都を舞台として、娘の結婚をめぐるブルジョワ階級の家族の意向が描かれています。作品の題名に「晩」春、麦秋は初夏のことすが寂しさを感じさせる麦「秋」、「暮」色など、伝統的な価値観への追憶を取りあげながら、時代の変遷に戸惑う家族の様子が描かれています。気になるのは、登場人物の会話です。「おかけ」、「お入り」など優しい命令形の言葉、今まで特に違和感を持たなかった言葉に違和感を感じました。もう一つは、「そうか、そうだな」というような人の言葉を受けて繰り返す台詞の多いことです。小津の映画の落ち着いた雰囲気を形作る大きな要素ですが、年よりも若い人も同じように繰り返します。時代的なものでしょうが、少し気になりました。

 言葉の面から言えば、今回の松竹東急の5本の映画の中で、異質な作品となっている京都/関西を舞台にした「小早川家の秋」を面白く見ました。関西言葉はテレビの世界では下品でどぎついものとし扱われていましたが、鴈治郎浪花千栄子の関西弁のきれいな柔らかさを堪能しました。

そろそろ、散歩の虫も

コロナだけではないのですが、長い間中断していたブログを再開しようかなと言う気になってきました。もう中断して3年になりますが、今回は自転車での散歩も楽しんでいます。少しづつ報告します。

 #長堀通り

西詰めは伯楽橋西詰め、東詰めは今里交差点である。西詰の伯楽橋は木津川にかかる橋であり、橋の西は松島公園や松島新地、橋の東は土佐稲荷神社などがある。長堀通りは、東横堀川から木津川までの長堀川という運河の跡であり、1971年に埋めたてが終わり、この間の幅員は50mとなった。

 

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東詰の今里交差点は南北に今里筋、東西に千日前通りと長堀通りが交差する5叉路である。かつて信号のないロータリーとして有名であり、今でも今里ロータリーと呼ぶ人がある。ロータリーは昭和9年から昭和30年まで使われた。交通量の増加により昭和30年に信号が設置された。

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長堀通りと南北の筋からなる交差点の名称には、四つ橋、心斎橋、松屋町、玉造、今里など南北の筋の名称となっている例が多い。長堀通りの交差点に南北の筋の名称が集中するのは不思議なことである。大阪は東西軸が中心の町であって、その中でも現在の長堀通りが中心であったということであろうか。

長堀通りは長堀川のすぐ北の末吉橋通りと一体になった通りであり、末吉橋通りには市電も走っていた。長堀川の歴史を示す写真を示す。[ 「摂津名所図絵』から長堀石濱、四つ橋のダイヤモンドクロス(市電の平面交差)と長堀川、昭和初期の四つ橋交差点での砂ぼこり対策の散水車、歩道橋になった心斎橋である。

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長堀川西横堀川の交差点によって、地域名が異なる。北東は船場、北西は下船場、南東は島之内、南西は堀江となる。長堀通りの地下には、クリスタ長堀という地下街が作られた。商店街だけでなくさらにその下に複数階の地下駐車場も設置され、開発当時は日本一とも言われる面積であった。

長堀通りの東部には、暗越奈良街道が縫うように平行する。高麗橋を起点とし、長堀通りからは東へと伸びる。歴史的にも大切にされ、各地で街道表示と道路の色分けが行われている。玉造駅東の玉津橋近辺では長堀通りから少し東に離れるが、今里交差点付近では、通りに平行するようになる。

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#魚の棚商店街とタコ

明石の魚の棚商店街に行ってきました。地元では「うおんたな」と発言するとのことです。JR明石駅のすぐ南に国道2号線が、そのすぐ南の東西の通りです。明石駅からは建物や陸橋を利用することで、雨の日でもぬれないで商店街に入れます。9月の連休の一日でしたので、大変な賑わいでした。

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約350mの商店街で、鮮魚、練り物、乾物、飲食店等が並んでおり、大変な人出でした。鯛をはじめとする鮮魚ですが、一日ではけるとは信じられないくらいの量です。明石は鯛やタコが有名ですが、穴子なども多く見られました。今回はタコに焦点を当ててみます。写真は生ダコと柔らか煮、タコのみりん干しです。

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次は加工品を中心に。タコの姿そのものの干物、蒲鉾や平天、磯巻きなどの練り物、1枚が500円もする団扇より大きなタコせんべい、最後は喫茶店でもメニューにあるという「玉子焼(明石焼き)」です。

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