#淀川通り

東詰めは東淀川区東淡路1丁目、西詰めは西淀川区中島2丁目である。沿線には長柄橋北詰、十三、歌島橋、大和田西等がある。大阪市の道路において、淀川通りのように東詰、西詰の双方が自動車専用道路となっていることは珍しい。

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東詰近辺の通りは淀川の北土手に沿っている。東詰は、道路が淀川沿いから北へ大きく曲がる三叉路である。土手に上がると、すぐ東にJR大阪東線の鉄橋があり、近辺には尼崎市大阪市上水道の取水施設も見られる。通りの北側には水道関係の施設が大きな面積を占めている。

 

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土手際に淀川通り始まりの標識が見える。

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長柄橋北詰より東への道路は、淀川の土手に接しており、片側2車線の自動車専用道路とそれに沿った側道がある。側道は1車線の対面通行であるが、道幅が合計5mもないぐらいである。さらに、この側道は、この区間の両端である東淡路と長柄橋北詰近辺の2カ所で50m程度が東行き一方通行のみとなっている。

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返信先:
@yuv2VTO3CCea74g
さん
大阪シティーバスの東行きは側道を通行するが、西行きは自動車専用部分を通行する。この区間の停留所は柴島停留所の1ヶ所だけであるが、西行きのバス停を利用するには自動車専用道路の上を渡る歩道橋を利用し、専用道路の中に特別に設けられた停留所を使うこととなる。

 

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道路の向こうに東行きのバス停のテントが見える。

淀川通りは阪急南方駅近辺で淀川から200m程度離れ、十三から西は徐々にその距離を広げる。西中島南方から43号線との交差点である大和田西まで、ほぼ中央に分離柵と灌木が植えられた分離帯を持つ道路となっている。人々の生活圏は十三近辺を境に東西で大きく異なる感がある。

国道2号線の要衝である歌島橋は大きな交差点で、地上には横断歩道が全く設けられておらず、巨大な地下通路が設けられている。また、交差点のすぐ東には、大野川緑陰道路があり、憩いの場となっている。

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国道43号線の近くでは物流基地や工場が多くなり、海抜0m地帯を示す掲示も現れる。淀川通りは大和田西の交差点で神崎川、西島川の2つの川を越える自動車専用の中島大野高架橋となり、西詰の中島2丁目まで至る。この高架橋には側道はなく、高架橋はそのまま阪神高速の中島出入り口にも繋がっている。

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大和田西から西島、中島方面への出入り口

 

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淀川通りの始まりである標識が見える。

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 #日本の地名にABC?

 大阪市中央区、「上町」という町名に、A、B、Cがついた地域がある。正式の行政区分としての地名である。アルファベットのついた地名は全国でもここだけという。「上町」は上町筋の東西に面する町で、難波宮跡のすぐ南の上町交差点から上本町1丁目の少し北までの町である。

 

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住居表示板で、上が西、左が北である。西にBCがある。

ç»å東区には1944(昭和19)年から上町という地名があった。その後、1979(昭和55)年に、同じ東区の寺山町、広小路、東雲町などいくつかの地域の一部が「上町1丁目」となった。同じ東区に「上町」と「上町1丁目」が共存することとなったが、この当時の町の表示は番地までであったので、混乱は生じなかった。

1989(平成元)年の大阪市の区再編で東区と南区とを併せて中央区とすることなり、町名も番を街区符号、号を住居番号することとされた。そうなれば例えば「上町1-1」は「上町1番1号」なのか、「上町1丁目1番」なのかの区別ができなくなる。

そこで行政は、「上町」に「上町2丁目」となるように提案したが、古くから上町の地名を使っていた地域が「2丁目」とされることに強い反対があり、住民が納得しなかった。結果として「上町」にABCという街区が挿入され、区別が可能となった。ABCを使うことには、あまり反対はなかったと聞いている。

 

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上町筋に面した有名な大槻能楽堂の地名表示に注目。

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上記の2枚目の写真は上町筋の1本東の道路であるが、3街区とも上町筋に面しており、上町Aは上町筋の東側、上町Bと上町Cは上町筋の西側で、南に上町B、北に上町Cとなっている。なお、江戸時代には旧南区にあたる地域に「上町」という地域があったとのことであるが、この当時には南区に上町という地名はなく、東区と南区の争いだとする捉え方は成立しない。

 

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上町Bから南の方向の上本町1丁目交差点を望む

 

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上町筋に面する2軒の住宅の住居表示に注目

現在では、「上町」と「上町1丁目」はそれぞれ独立した町名として扱われており、「上町2丁目」等は存在しない。
旧「上町」は上町筋の東側に北から南に1番地から16番地、折り返して、西側の南から北へ17番地から32番地となっていた。

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2枚とも上町交差点の北西から。上町筋を南に望むものと小さな表示になっている「上町C」を拡大したものである。

 

 #阿倍野筋

阿倍野筋は、谷町筋の南につながる道路であり、北詰は近鉄阿倍野交差点、南詰は大和川にかかる遠里小野橋である。上町台地を走る道路であるが、地下鉄等の鉄道が通っていないことや府立の総合医療センターがあるため、バスの本数は大変多い。

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近鉄阿倍野交差点付近は、2016年に西側に拡幅工事が行われ、車の流れはかなり改善されたが、工事は現在も行われており、いつでもラッシュ状態であるという印象がある。近鉄前から松虫のあたりまで、阿倍野筋を走る阪堺電車(地元ではちん電といっている)は大阪市内唯一のトラムである。

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松虫から南へは、中央に分離帯を持つ道路となっている。沿線の西は大阪市内のお屋敷町が連なる住宅街である。東は日本の都市計画のモデルとなった日本で2番目の都市計画整備事業である阪南町地域がある。碁盤目の道路、門構え付きの瓦屋根2階建の4軒長屋が借家として整備されたことで注目された。

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また、安倍晴明神社もこの沿線のすぐ西を走る熊野街道沿いにある。陰陽師として有名な安倍晴明の誕生地伝説のある神社である。しかし、一時廃れてしまい、今では近くにある阿倍野王子神社末社となっているが、近年ではパワースポットとして再び人気を集めている。
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遠里小野橋大和川に架かる橋で、堺東まで3kmのところにある大阪市堺市の境界となる橋である。上流側には南海高野線の鉄橋があり、下流側には阪堺電車の鉄橋、大和橋、南海本線の鉄橋、阪神高速堺線、大和川大橋等が重なっている。

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#道頓堀川水門

 道頓堀川水門は、南北に貫く木津川に対し、東から西横堀川が合流し木津川の下流となる川の交差点のすぐ東にある。西には木津川から分岐して大阪湾まで流れる尻無川が新たな川筋となっている。

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西道頓堀川が木津川と合流する様子、右に水門が見える。

水門は、東横堀川水門に比べると小さくて、ゲートは2門あるが、観光船なら1艘がギリギリぐらいの規模である。平素は水門は閉じられている。東横堀川水門より大阪湾からの上げ潮の導入に大きな役割を果たしているように思う。

 

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左のゲートは手前(下流側)も向こう(上流側)も閉じられている。

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上流側からゲートに入った観光船が、水位調節が行われ、下流側のゲートが沈むのを待っている様子。

船場の東西は東横堀川西横堀川で区切られていたが、四つ橋筋の東にあった西横堀川は埋め立てられてしまっている。道頓堀川水門は船場の北東部にある東横堀川水門と対を為して、東横堀川道頓堀川の水質浄化に取り組んでおり、昔に比べて、この2つの堀川の水質は大変よくなった。水門は、高潮に対する防水対策としての役割も大きい。この川の交差点の川下(大阪湾側)には、木津川水門、尻無川水門があり、安治川水門と共に、大きなアーチ型水門として有名である。

 なお、この近くに1854年の「大地震両川口津波記」の碑が残されている。

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 #東横堀川水門

船場の北東部、北の土佐堀川から南に分岐して東横堀川となる。この川にかかる高麗橋のすぐ南に東横堀川水門がある。これに対応するのは船場の少し南西、大正橋近くの道頓堀水門である。

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水門は本来、高潮からの防御のための施設であるが、水質浄化やパナマ運河のように行き交う船のための水位調節を行う閘門の役目も果たしている。阪神タイガース優勝の折には道頓堀川に飛び込む人が相次いだが、川の汚れがひどいので命知らずの行為だなと思ったものだ。

今ならば水質がよくなっているので、命がけとまでは言えないのだろうと思っているが…。この東横堀川道頓堀川の水質浄化に大きな役割を果たしているのが、2つの水門である。東横堀川水門は、2枚のゲートからなっている。上流側は円弧状の1枚ゲートであり、下流側は2枚の観音開きのゲートである。

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平素は片側のゲートが閉まっているようである。上流側のゲートが水面下に沈んだ状態で、観光船を迎える。上流側のゲートが水中より表れると同時に両岸から水が噴射され、水位の調節を行う。2枚目の写真の橋の下には両岸から噴水のように水が放出されている様子が写っています。閘門はプール状態になり、船は浮かんで待機し、下流側の観音開きの扉が開くと出て行くことが可能になる。

 #千本松大橋と渡し

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西成区側から大正区を望む

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標高33mに注目してください。

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橋の下を貨物船が通行していますが、まだまだ余裕があります。

 千本松大橋は橋の両端が眼鏡の枠のようにグルグルと回る取り付け道路があるので、地元で眼鏡橋と呼ばれています。橋桁は、満潮時の水面から33mもあります。この近辺には造船所や工場が集積しており、大型船を通すために水面から橋桁を高くする必要があったからでした。

  今ではこの高さを必要とする大型船の通行はなくなっているとのことです。木津川の河口から2番目の橋で、西成区南津守と大正区南恩加島を結んでおり、自転車や歩行者も通行可能となっています。また、住之江公園大阪ドームを結ぶ大阪市ティーバスの路線も、この橋を利用しています。

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ループの様子を見てください。

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橋の上からループの重なりを見ています。

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千本松に渡しがついたところです。

 橋の標高が余りにも高いために従来からあった渡船も残されています。渡し船は道路の扱いであるので、乗船料はいりません。大阪市内には8つの渡船が残っており、そのうちの4つは木津川に設けられています。千本松は河口から2つめの渡しです。 

#伏見町1丁目の謎

地名があるのに、それがどこだかわからない。それが伏見町1丁目です。堺筋以西の2丁目からははっきりしているのですが、堺筋より東である1丁目がわからない。大阪の昔は東西軸で町が作られ、町名も東西の通が基本です。

船場もそうですが、町名は通をはさんで、南北に向かい合う区域で一つの町となっています。また、東船場の筋は、東横堀川のすぐ西の箒屋町筋から、板屋橋筋八百屋町筋堺筋となっていますが、この間の東西300m余りの地域がいずれの町でも1丁目となっています。

私は、北船場地域の「高伏道(高麗橋通伏見町通道修町通)」についても同様だと思い込んでいるので、「伏見町1丁目」が見つからなくて焦りました。伏見町通は、堺筋より西では、レトロな建物のある個性的な通として有名ですが、堺筋より東に伏見町という住所表示をみつけることができませんでした。

伏見町通の北に面した区画は高麗橋の町名になっており、南に面した町名は道修町になっています。箒屋町筋でもそうですし、堺筋でもそうです。道修町堺筋の東角には有名な小西家住宅があります。小西家住宅の北端はいわゆる伏見町通ですが、住所表示は道修町となっています。

堺筋に面して高麗橋通から伏見町通まで一体となった北浜プラザ(住居表示は高麗橋1丁目)の東、八百屋町筋板屋橋筋の間に建っている大きなビジネスホテルがあります。住所表示をようやく探し当てると、板屋橋筋に面したホテルのガレージのところにありました。

 

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堺筋に面する小西家住宅から「伏見町通」の東方向を見たもの

 

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伏見町1丁目の唯一の建物であるホテルとそのガレージ

 

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インターネット地図のマップルより 北も南も町名の境界は通りではなく、背割りとなっている。伏見町通は通の真ん中を町名の境界線としていることがわかる。

拡大した大きな地図を見ると、伏見町1丁目には1-1だけがあり、そこにはこのビジネスホテルがあります。さらに、このホテルの東である板屋橋筋から箒屋町筋までは高麗橋1丁目となっています。伏見町1丁目は大阪の中心部である町ですが、今では1-1に1つのビルだけがある地名として残っています。

この一角が再開発されて高麗橋通と一体となるような巨大な建物ができると、住所としては高麗橋が使われることとなるでしょう。すると、伏見町1丁目は消滅してしまい、堺筋より西の2丁目からの町となりかねません。こんなとんでもないことを想像はできても、現実にならないことを祈るのみです。